女好きでも子宝に恵まれなかった…豊臣秀吉と14人の側室たち

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1. 「おね(別名「ねね」)」秀吉の最愛の正室

豊臣秀吉はご存知の通り百姓から天下統一を果たす迄に出世した人物です。その秀吉を貧しい時から支えてきたのは他ならぬおねです。

しかし部類の女好きの秀吉にはたくさんの側室がいました。おねとの間に子供ができなかったこともあるでしょうが、私にはただの女好きの大名にしか見えません。

 

2. 秀吉の長男を生んだ「南殿」

秀吉が近江長浜城主の頃の側室で山名喜幸の娘ではないかと言われている南殿は、二人の子供を生んでいます。1人は長男である羽柴秀勝、もう1人は女の子だったそうです。

残念なことに2人とも幼くして亡くなってしまいます。その後南殿は出家してしまいました。

 

3. 秀吉が最も愛した「淀殿」

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浅井長政の長女で織田信長の妹お市の方を母にもつ淀殿は、秀吉の思い人お市の方にとてもよく似ていたそうです。その淀殿を側室にできたことで秀吉は有頂天になります。

淀殿は次男 豊臣鶴松と三男豊臣秀頼を生みました。鶴松はやはり幼くしてこの世を去り、秀吉の後を継ぐのは秀頼しかいなくなりました。

 

4. 山名豊国の娘「南の方」

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秀吉が鳥取城主の頃、山名豊国の娘あかねを側室にしました。南の方の侍女は毛利の間者で情報を流していたといわれています。

 

5. 京極高吉の娘「竜子」

松の丸殿と言われた竜子は、浅井三姉妹と従姉妹になりますが、淀殿よりも名門出身で秀吉のお気に入りの側室でした。秀吉が亡くなると出家して寿芳院と名乗りました。

 

6. 前田利家の娘「摩阿」

加賀殿と言われた摩阿は体が弱く実家で過ごすことが多かったそうです。秀吉の死後は、万里小路充房の側室となり前田利忠を生んでいます。

 

7. 東国無双の美人 「甲斐姫」

成田氏長の娘で、美人の上に武芸や軍事に長けているという噂を聞いた秀吉は甲斐姫を側室に迎えました。秀吉の死後の消息はわかっていません。

 

8. 「織田信長の娘」も側室にしていた

主君であった織田信長の六女を側室に迎え、三の丸に住んでいたので三の丸殿と言われていました。秀吉の死後は二条昭実に嫁いでいます。

 

9. 蒲生賢秀の娘「三条殿」

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蒲生賢秀の娘とらは三条殿と言われていました。会津藩主蒲生氏郷の妹にあたる人です。

 

10. 「姫路殿」

織田信包の娘である姫路殿は、秀吉の中国攻めの頃に側室となります。秀吉からは愛されていましたが子を成すことはできませんでした。

 

11. 名護屋経勝の娘「広沢局」

秀吉の朝鮮出兵の際、名護屋城にいた時側室となりました。この方も秀吉の死後は出家しています。

 

12. 足利頼純の娘「月桂院」

足利頼純の娘 嶋子は夫に置き去りにされ秀吉の側室となりました。秀吉の側室の中では最も身分の高い家柄の女性でした。

 

13. 高田次郎右衛門の娘「種」

その美貌を見初められ秀吉の側室となり香の前と呼ばれます。その後伊達政宗に下賜され子供を設けます。そして政宗の家臣茂庭綱元に下げ渡され側室となっています。

 

14. 三浦能登守の娘「円融院」

三浦能登守の娘である円融院は、三浦貞勝、宇喜多直家と結婚し宇喜多秀家を生みます。秀吉の側室だったといわれていますが定かではありません。

このようにたくさんの側室がいたのに後継に恵まれなかったのはなぜでしょうか。

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