光秀は生きていた?「明智光秀」と「天海」同一人物説3つの理由

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本能寺の変の後に殺された明智光秀は実は生きていたという説がある

天正10年(1582年)6月、京都の本能寺に滞在中の主君織田信長に謀叛を企てた明智光秀のことは皆さんが知っている有名な話ですね。

そしてその後すぐに引き返してきた秀吉に追われ京都の伏見区あたりで土民に討たれました。これを明智光秀の三日天下と呼ばれています。

光秀の首は本能寺で晒された後、京都の栗田口に首と胴体をつないで晒されたそうです。しかし顔の皮は剥かれ、腐敗が激しかったといいます。

 

天海とは天台宗の僧で徳川家康にも仕えた

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天海は天台宗の僧で、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて生存していたそうです。南光坊天海と言い、智楽院とも呼ばれました。

諡を慈眼大師と言われたほどの高僧でした。

天海は徳川家康の側近として、朝廷や宗教対策に深く関与していました。

天海という人を調べてみると、天文5年(1536年)に会津の蘆名氏の一族として生まれたという説が一般的です。14歳の頃下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び、比叡山延暦寺や三井寺、大和国の興福寺などで学を深めたといいます。

その後天正16年(1588年)に武蔵国の無量寿寺に移り、天海を号したとされています。

慶長4年(1599年)無量寿北院の住職となると、家康の参謀として活躍します。その後日光山貫主を拝命します。

家康の死後、その神号を東照大権現と決定し日光山に埋葬しました。

三代将軍家光にも仕え、寛永20年(1643年)に106歳で没したとされています。当時としては随分長寿だったといえるでしょう。

 

天海と光秀が同一人物と言われている3つの理由

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1. 明智光秀の位牌のある慈眼寺の寺名と、天海の諡の慈眼大師が同じであることです。慈眼大師という諡は天海の死後朝廷によって送られたとされていますが、ただの偶然なのでしょうか。

2. 比叡山松祥寺に明智光秀寄進の石灯篭があります。その寄進の日付が慶長20年(1615年)となっています。

つまりその日付は光秀の死後となってしまうのです。本当に光秀が寄進したものなら彼は生きていたということになります。

3. 家康の墓所である日光の見晴らしの良い場所を選び、天海はそこに明智平と名付けています。三日天下と嘲りを受けた光秀が、晴れてまた明智の名を堂々と名乗ることができた証拠ではないかと言われています。

 

天海と光秀は別人だという説もある

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明智光秀は1528年から1537年頃の生まれで、天海の没した年は1643年なのでいくら長寿でも無理があると思われます。

しかし天海は全く光秀と無縁であったのではなく、かなり近い親族だったのではないかという説もあります。そう考えれば日光に明智の名を付けたのも、光秀の名で灯篭を寄進したことも頷けると思います。

私たちの学んだ歴史上の人物では、何人か実は生き延びていたという歴史好きの人の興味を引き立てる事が多々あります。今回の明智光秀=天海説も大変興味深い題材だと思いませんか。

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