信長の妻は才女揃い!織田信長を支えた5人の妻

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1. 信長の正妻はまむしと言われた斎藤道三の娘「帰蝶」

織田信長の正室は、帰蝶といいます。美濃のまむしと言われた斎藤道三の娘です。

天文17年(1548年)秋、帰蝶は信長のもとに輿入れします。(結婚の時期については翌年の春という説もあります。)

当然この時代ですから政略結婚です。それでも帰蝶は大切にされたようで、輿入れしてからは「濃姫」と呼ばれるようになりました。

「濃姫」とは美濃の高貴な人を表しており、このことからも帰蝶が大事に扱われていたということがわかります。

しかし帰蝶と信長の間には子供がいなかったと言われています。子供はいたが女の子だったという説もあります。

帰蝶に関しての情報は輿入れしてからあまりわかっていません。本能寺の変の時に信長と共に亡くなったとか、翌年信長の葬儀を執り行ったのは帰蝶だったとか諸説あります。

ただ信長にはたくさんの側室がいたようですが、織田家の中で問題が起こったという話も聞きませんので、奥向きの事をしっかりと取り仕切っていた才女だったのではないかと想像されます。

 

2. 信長の最愛の側室といわれる「生駒の方」

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生駒吉乃(いこまきつの)は、夫の土田弥平次が戦死したため実家に戻っていた弘治2年(1556年)頃、信長に見初められ側室となりました。

信長の寵愛を受け、嫡男となる信忠や信雄、徳姫を産んでいます。その後産後の肥立ちが悪く亡くなりました。

永禄9年(1566年)5月に死去されたと言われています。享年39歳とされていますが、生駒の方は信長より4歳年下という事から29歳であったとされる説もあります。

徳姫はのちに徳川家康の嫡男松平信康に嫁いでいます。しかし父信長に夫信康とその母築山殿を訴える訴状を送ったため、両名共死に追いやられています。

信長と濃姫の間に嫡男がなく、生駒の方の産んだ信忠が嫡男となった事で、実質的には正室若しくはそれに近い扱いを受けていたのではないかと思われます。「信長最愛の女性」という説もあります。

 

3. 生駒の方亡き後を継いだ「お鍋の方」

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お鍋の方は近江国の高野城主である小倉実房に嫁ぎ、2人の男児をもうけました。その後実房が戦死し、お鍋の方は信長の側室となります。

お鍋の方は、織田信高、信吉、於振(おふり)を産んでいます。生駒の方が亡くなると正室に近い扱いを受けました。

本能寺の変で信長が亡くなってからは、織田家の側室の代表として行動し織田家の位牌所守ったと言われています。その後羽柴秀吉の庇護の下、近江愛知郡182石を与えられています。

豊臣政権の奥向きでも重臣であったとされています。晩年は淀殿から賜った50石の知行地である京都で過ごし、慶長17年(1612年)に亡くなりました。

 

4. その他2人の信長の妻

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織田信正の生母として、原田直子という女性がいました。この方は天文23年(1554年)那古野城で織田信正を出産していますが、永禄9年(1566年)古渡城に移って以降の消息は全くわかっていません。

また、その他の信長の妻に羽柴秀勝の生母となった養観院(ようかんいん)という女性がいました。出生や生没年は不明ですが、永禄12年(1569年)に信長の四男、於次秀勝を産んでいます。

於次秀勝は天正4年(1576年)に信長の重臣だった羽柴秀吉の養子となりました。しかし秀勝は病弱で天正13年(1585年)に死去しています。

高野山にある信長と秀勝の供養塔は養観院が建立したものだと言われています。高野山を攻めた事のある信長の供養塔がそこにある事が複雑な気持ちにさせられます。

以上のように信長を支えた妻たちは、どの方も才女だったと思われます。

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