戦国の美少年…森蘭丸!織田信長の小姓「森蘭丸」の生まれと生涯

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森蘭丸(もりらんまる)は森可成の三男として生まれ13歳で家督を継いだ

森蘭丸は、永禄8年(1565年)に織田家の家臣森可成(もりよしなり)の三男として尾張葉栗郡蓮台で生まれました。母は森可成の正室えいの方です。

森蘭丸に関しては、森成利(もりなりとし)や、森乱などあるが「信長公記」には森乱と蘭ではなく乱の字が使われています。ここでは一般的に知られている森蘭丸として話を進めていきます。

父の森可成は美濃の出身で、元は土岐氏に仕えていました。後に斎藤道三の家臣となり、天文23年(1554年)には織田信長の家臣になります。

永禄8年(1565年)には美濃、金山城主となり、織田信長上洛の際には柴田勝家と共に先鋒を務め、その後近江、宇佐山城主となりました。この年に蘭丸は誕生しているのです。

元亀9年(1570年)森蘭丸が6歳のとき、父の森可成は浅井、朝倉軍との戦いで、織田信長の弟織田信治や青池茂綱と共に戦死します。長男の森可隆(もりよしたか)も18歳の若さで姉川の戦いにおいて父より先に亡くなっており、家督は次男の森長可(もりながよし)が13歳で継ぎました。

織田信長の小姓に就き信長に気に入られていた

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森蘭丸は天正5年(1577年)小姓として、弟の森長隆(もりながたか)や森長氏(もりながうじ)らと共に織田信長に仕えます。天正9年(1581年)には近江国に500国の知行を与えられ、この頃から小姓だけではなく事務官として実力を発揮していきました。

森蘭丸は眉目秀麗な美少年であり、秀才だったために信長にひときわ寵愛されていました。この時代小姓といえば主の側に絶えず仕え、身の回りの庶務をはたすほか男色の対象となるものもいました。

森蘭丸が織田信長と衆道の関係にあったかどうかははっきりしていませんが、信長は側近や諸大名たちに自慢できる物として、第1に奥州から献上された白斑の鷹、第2に青の鳥、そして第3に森蘭丸だと述べたとされています。

賢さゆえに城持ちになった

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森蘭丸が15歳の時、信長の使者として塩川国満に銀子100枚を遣わせた際に、塩川は蘭丸の品行方正な姿を大変褒めたといいます。また天正9年(1581年)頃は河内の金剛寺に信長の使者として何度も赴いています。

翌年斎藤六太夫の戦功に褒美が与えられた時も、森蘭丸は使者を勤めその姿を褒められました。

使者としての役目だけではなく、信長の側に仕えている時もとてもしっかりしていました。ある日信長が爪を切った際、扇子の上に切った爪を乗せて捨てるように蘭丸に命じました。

蘭丸は扇子の上に爪が9つしかないのに気づき残りの1つを探したといいます。その爪は信長が隠しておいたものでよく気のつく蘭丸を褒めたそうです。

信長もそんなふうにして家臣の度量を測っていたのですね。信長の前では家臣たちは気を緩めることができなかったかもしれません。

蘭丸は天正10年(1582年)に18歳で金山城主となりました。5万石の立派な大名です。

しかし多忙であったため各務元正が城代として城に入っていました。

森蘭丸は本能寺の変で最期を迎えた

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森蘭丸は本能寺の変の折、信長を守り戦い抜きますが、ついに明智光秀配下の安田国継に討ち取られました。享年18歳でした。この時弟の森長隆と森長氏も戦死しています。

もしも本能寺の変がなく信長が天下を取っていたら、秀吉に仕えた石田三成のように信長のもとで才腕を奮ったことでしょう。

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