織田信長との戦いで散った大名…浅井長政の生涯と「一乗谷の戦い」

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戦国大名「浅井長政」の生涯について知ろう

北近江の戦国大名、浅井家の3代目にして最後の当主です。長政の父の代から六角家の支配を受け
六角義賢の名前から一字をとって浅井賢政と名付けられています。

正室も六角家の家臣の娘を与えられました。長政は六角家からの独立を決め、嫁いできた嫁を返し六角家2万の兵を打ち破りました。

こうして浅井賢政の名を捨て、浅井長政として北近江の支配を固め戦国大名となったのです。

 

織田信長は浅井長政と「朝倉を攻めない」条件で同盟を結んだ

1560年代、織田信長は美濃国の斎藤龍興との膠着状態を打破するため、不破光治を使者として浅井長政のもとへ送ります。浅井家との同盟を結ぶためです。

浅井家の家臣は賛否両論あり、特に長政の盟友朝倉義景と信長が不仲であったことが浅井家に二の足を踏ませました。信長は同盟の条件の中に朝倉を攻めないことを約束します。

そして信長は、自分の妹であり戦国一美人と有名だったお市の方を側室として浅井長政に嫁がせました。

永禄11年(1568年)越前に滞在していた足利義昭は、上洛をしようとしない朝倉義景に業を煮やし尾張の織田信長を頼りにするようになります。これを機に信長の上洛が始まりました。

途中六角氏を攻撃し、浅井長政も義昭を守護しながら上洛を支えました。この時点で浅井長政は朝倉氏を見限っておくべきでした。

 

信長は朝倉を攻めた為に浅井は信長と戦うことになった

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元亀元年(1570年)、信長は浅井長政と交わした朝倉を攻めないという誓いを破り、徳川家康と共に越前の朝倉氏の城を攻めます。裏切られた浅井長政は、朝倉軍を守るべく背後から織田徳川連合軍を急襲しました。

この時信長は命からがら逃げきっています。これが「金ヶ崎の退き口」と言い戦国史上有名な織田信長の撤退戦となっています。

信長との同盟に反対していた浅井家の家臣たちは、朝倉氏を攻めることを前もって浅井氏に報告しなかったことから織田側と戦うことを進言します。

 

浅井・朝倉は「姉川の戦い」で敗北する

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浅井長政は、朝倉軍と共に近江国の姉川で織田徳川連合軍と戦います。「姉川の戦い」です。

この戦いでは織田徳川連合軍の勝利に終わりました。この時浅井家の足軽だった藤堂高虎が、織田家に対して多くの武功を挙げています。

 

浅井は武田信玄と協力して信長と戦ったが途中で信玄は亡くなる

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将軍足利義昭の要請に応じて、武田信玄は西上作戦を始めました。この時信玄は浅井長政、久政親子に作戦を伝えています。

三方ヶ原の戦いで信玄は織田徳川連合軍を撃破します。この時浅井長政らに与えられた役目は、北近江の織田軍を岐阜に戻さないことでした。

これは、織田信長が全力で信玄と戦うことを避けるための作戦でした。

しかし朝倉軍が被兵と雪のために越前に帰ってしまい、織田軍への追撃が難しくなります。しかもこの後最も頼りにしていた信玄が亡くなってしまうのでした。

 

浅井家の最期「一乗谷の戦い」

天正元年(1573年)信長は3万の兵で浅井長政を攻めます。長政は朝倉義景に応援を求めますが織田軍の追撃にあい朝倉軍は滅亡しました。

これが一乗谷の戦いです。

信長の大軍に囲まれた浅井長政は、お市の方と3人の娘たちを信長陣営へ送ります。その後父の久政共に小谷城において自害して果てました。

その後お市の方は柴田勝家へ嫁ぎましたが、やはり兄の信長に攻められ夫勝家と共に自害しています。

娘たちの長女茶々は、秀吉の寵愛を受けた淀殿として有名です。豊臣秀頼の母として大坂夏の陣で共にその生涯を終えました。

次女のお初は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕えた京極高次に嫁ぎます。三女の江は徳川秀忠(家康の嫡男 2代将軍)に嫁ぎ御台所となりました。

浅井家は滅亡しましたが、浅井の血は徳川家へと受け継がれていったのです。

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