武田信玄の最後?織田信長と武田信玄の関係性と長篠の戦い

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織田信長は武田信玄との関係性

甲斐の虎や甲斐の龍などの異名を持つ武田信玄は、越後の上杉謙信との5回に渡る合戦「川中島の戦い」で有名です。

その武田信玄と織田信長はどのような関係だったのでしょう。

永禄3年(1560年)桶狭間の合戦で同盟国の今川義元が尾張の織田信長に敗れた後、徳川家康が三河で独立をしました。その頃、岐阜においても織田信長が斎藤氏への介入をし抗争をしていました。

織田信長は斉藤氏への対抗上武田家と関係を改善するために、養女の遠山夫人を当時信玄の庶子であった武田勝頼の正室としておくります。(当時信玄の嫡男は義信でした)

しかし遠山夫人は男児(後の武田信勝)を設けた後、25歳の若さでこの世を去った為、武田信玄との関係悪化を恐れた信長は、次に武田信玄の娘松姫と織田信長の嫡男信忠との婚約をさせます。

その後永禄12年(1569年)には将軍足利義昭と共に、武田家と越後の上杉家の和睦にも手を貸しています。

こうして表面上は武田信玄との同盟関係が保たれていたのです。

 

武田信玄は西上し浅井長政らと信長包囲網を作って攻めたが…

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織田信長が将軍足利義昭との関係を険悪化させると、武田信玄は挙兵し浅井長政らと信長包囲網を形成し織田家を滅ぼす好機を待ちます。

武田信玄が挙兵に応じた理由には、織田信長の仏教徒弾圧への対抗もあったと思われます。仏教の守護神であるといわれた武田信玄には織田信長のキリスト教に肩入れする反面で、比叡山焼き討ちなど仏教徒に対しての仕打ちは目に余るものだったでしょう。

この時、武田信玄は織田信長のことを「天魔の変化」と言って非難しています。織田信長との信頼関係が失われた時でしょう。

武田軍は当初の目的を徳川家康に定め三河を攻めました。徳川家康は織田信長に助けを求めましたが織田信長も浅井・朝倉連合軍と戦っている最中で疲弊がひどく、わずか3000の兵をおくっただけでした。

徳川家康は一言坂で敗退し、その後三方ヶ原の戦いでは討ち死に寸前にまで追い込まれます。この時命からがら逃れた徳川家康は、その直後の自分の不甲斐ない姿を絵師に書かせ後々の教訓としたと言われています。

 

武田信玄が戦いの途中で死去した理由

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武田信玄は三方ヶ原の戦いの後野田城を落としますが、それに呼応して足利義昭が織田信長に対して挙兵します。織田信長はそれを受けて岐阜から京都へと向かって進軍しました。

武田信玄はその直後から持病が悪化しそこで武田軍の進軍が止まります。武田信玄は長篠城で療養をしていましたがついに武田軍は甲斐へ撤退することになりました。

その途中三河街道上の信濃国駒場(現在の長野県下伊那郡阿智村)で武田信玄は死去します。享年53歳でした。

「甲陽軍艦」によれば、武田信玄はその最期に自分の死を3年間秘密にし、遺体は諏訪湖に沈めるように遺言したと記されています。そして越後の上杉謙信を頼るように勝頼に言い残したそうです。

風林火山の旗のもと、また戦国大名が1人この世を去りました。

 

武田勝頼は織田信長との「長篠の戦い」で敗北するが…

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武田軍の甲斐への撤退を機に、織田信長は朝倉や浅井などの反信長軍を滅ぼし将軍足利義昭を京都から追放します。ここに織田信長の「天下人」が誕生するのです。

天正3年(1575年)三河の国長篠城を巡り、織田信長・徳川家康連合軍38000と武田勝頼軍15000との間で戦となります。世に言う「長篠の合戦」です。

武田勝頼は武田信玄の葬儀を執り行った直後にこの戦いに挑んでいます。武田信玄の死により停滞していた三河の国を再度支配下に置きたかったものと思われます。

織田信長は鉄砲を3000丁用意し、三段撃ちを実行したため、当時最強と言われた武田軍の騎馬隊はなすすべもなく殲滅したといわれています。もともと兵力においても倍以上の差があったのですから武田軍の敗退は仕方なかったと言えるかもしれません。

こうして織田信長は武田信玄という強敵から逃れ、さらに天下統一への道を進んで行ったのです。

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