才能溢れる男!「斎藤道三」の生涯と織田信長との関係

SnapCrab_NoName_2016-6-8_10-16-18_No-00

 

織田信長は斎藤道三の娘と結婚した

織田信長の少年期は父信秀が、東の三河に今川義元、北の美濃に斎藤道三と2つの敵を同時に抱え苦慮していました。そこでその不利を脱するために信秀は、斎藤道三との和睦を考えました。

天文17年、信長15歳の頃、斎藤道三の娘帰蝶(濃姫)を信長が娶ることにより、織田家と斎藤家の同盟が成立したのです。その後信秀は42歳で亡くなっています。

跡を継いだ信長はまだ19歳の若さでした。

 

斎藤道三が「美濃のまむし」と呼ばれた理由

SnapCrab_NoName_2016-6-8_10-18-4_No-00

「美濃のまむし」と呼ばれた斎藤道三ですが、何故そのように言われるようになったのでしょう。

斎藤道三は幼名を峰丸といい、11歳で僧侶になりましたが、俗世へ戻り油売りの商人になりました。

その後武士を目指し長井長弘の家臣となります。一説にはこの長井長弘が斎藤道三の父であったともいいます。

その長井長弘を殺した斎藤道三は、長井家を乗っ取り長井新九郎利政と名乗り稲葉山城を居城とします。

やがて主君の土岐頼芸の弟を毒殺し、ついには主君親子を尾張に追放し国乗っ取りに成功したわけです。そして事実上美濃の国主となり戦国大名となりました。

そのような主君(親?)を裏切るような様を、親の腹を食い破って出てくる「まむし」に例えられているようです。

やがて嫡男の斎藤義龍との対立が進み、ついに斎藤道三は長良川河畔で戦死しています。我が子もまた「まむし」であったのでしょうか。

 

斎藤道三は織田信長と会談した

SnapCrab_NoName_2016-6-8_10-18-50_No-00

斎藤道三は尾張と美濃の境にある富田という集落の正徳寺にて、織田信長に会いたいと書状を送ります。娘を嫁にやったものの、世に「大うつけ」と言われている信長を自分の目で確かめたかったのでしょう。

やって来た信長は腰に瓢箪をぶら下げて、大小は指していたものの湯帷子の袖を外し、虎皮と豹革の半袴といううつけと言われてもおかしくないような格好であらわれました。

しかし、寺に着くと四方に屏風をめぐらせたかと思うと、褐色の長袴をはき、髪を整え、見事な立ち振る舞いであらわれ家中のものを驚かせたといいます。日頃のうつけぶりはわざとであったのかと肝を潰し、信長を見る目が違ってきたそうです。

対面は湯漬けを食し、盃を交わして無事終わりました。その帰り際斎藤道三は、美濃の兵士の槍は短く、尾張の兵士の槍は長く大きなものであったのを見て「無念ながら我が子供たちはこのたわけの門前に馬を繋ぐことになるであろう」と苦々しく述べたのでした。

その後織田信長のことを「うつけ」と呼ぶものはいませんでした。

 

斎藤道三は遺言で「織田信長に美濃を譲る」と書き記した

SnapCrab_NoName_2016-6-8_10-20-3_No-00

先ほども少し触れましたが、斎藤道三は嫡男斎藤義龍と不仲が絶えず、弘治元年(1555年)に義龍は道三に可愛がられている弟たちを殺し、道三に対して挙兵します。

翌年4月17500の兵を率いる義龍に対し、2500の兵の道三は長良川河畔で戦い、娘婿の織田信長の援軍の到着が間に合わずあえなく戦死しました。享年63歳といわれています。

斎藤道三はその最期に、織田信長に対して美濃を譲ると遺言書を渡しています。それほどに娘婿に期待していたのでしょう。

 

織田信長の美濃平定

斎藤道三亡き後、道三の末子の斎藤利治が織田家へ亡命し、斎藤長龍と改名し美濃斎藤家当主を名乗ります。

一方義龍は、将軍足利義輝より一色氏を称することを許され改名し、室町幕府の相伴衆となり戦国武将として大義名分を得ましたが、永禄4年(1561年)に急死しています。享年35歳でした。

織田信長は永禄10年(1567年)に稲葉山城を落とし、道三の孫の龍興を追放し美濃を支配下に置くことに成功しました。地名も岐阜に改め、稲葉山城も岐阜城と改められました。

これで織田信長は斎藤道三との最期の約束を果たすことができたのです。

スポンサーリンク

  • facebookシェア
  • twitterツィート
  • はてなブックマークはてブ
  • Google+Google+
  • RSSRSS
  • PocketPocket
サブコンテンツ

このページの先頭へ