謎に包まれた生涯…織田信長の正室「濃姫」の消息3つの説

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織田信長の正妻「濃姫」の結婚後の消息は3つの説がある

織田信長は1549年(1948年説もあり)、美濃の斎藤家から正室をもらいました。名前は帰蝶といい美濃のまむしと呼ばれた斎藤道三の三女です。

歳は信長と同じか1つ下くらいであったといいます。
帰蝶の父は斎藤道三、母は明智光継の娘 小貝の方です。兄弟には斎藤利治がおり、腹違いの兄弟には斎藤義龍がいました。

信長に嫁いだ後、濃姫と言うようになったそうです。濃姫とは、美濃の高貴な人という意味でした。

そのくらい織田家では大切な扱いを受けていたことがわかります。子供はなかったとか、女の子を授かったが嫡男には信長の側室であった生駒殿が生んだ子供が選ばれたという説があります。

 

1. 本能寺の変で信長と共に死んだという一説がある

濃姫に関しては、信長に輿入れして以降の様子がほとんど分かっていません。ですからその生涯も憶測の域をでないのです。

まず一説には、本能寺の変の時信長と一緒にいて共に勇敢に戦い死んだという話があります。ドラマや小説ではこのパターンが多く使われているようです。

愛する夫と共に死んだというのはロマンがありますからドラマになりやすいですね。しかしこれも事実かはわかっていません。

 

2. 斎藤道三死後「濃姫」は信長に離縁されたという説がある

元々この婚姻は斎藤道三との同盟を結ぶ上での政略結婚でした。ですから道三が義龍に敗れてこの世を去ると濃姫との婚姻に意味がなくなります。

その上、信長の寵愛する側室の生駒殿が世継ぎを生んだとなれば、尚のこと必要のない人間となったのです。そして信長に離縁され、斎藤家には父を殺した義龍がいるので戻れず、母方の叔父のいる明智城に身を寄せたと言われています。

ここでまた義龍の攻撃を受け、攻め滅ぼされた時に濃姫も死んだと伝えられています。

しかしこの考えは少し無理があるのではないでしょうか。斎藤道三は死後美濃一国を娘婿である信長に委ねたのです。

ここで濃姫を離縁すると、斎藤道三を討ち美濃を押さえようとしていた義龍打倒への大義名分がなくなってしまいます。娘婿という立場があるからこそ信長は美濃国を得ることができたのです。

そう考えると濃姫は大切な切り札であったといえますから、離縁の話は信憑性に欠けていると思われます。

 

3. 濃姫は信長亡き後「安土殿」として江戸時代まで生きた説が有力

本能寺の変の1年後「安土殿」と言われる人が信長の一周忌を行っています。この女性は慶長17年(1612年)に信長の菩提寺、総見院に葬られています。

このことから「安土殿」とは濃姫のことではないかと言われています。そうなると濃姫は、信長の死後随分長生きしたということになります。

 

濃姫の婚約後は不明な点が多いが魅力的な女性であったことは確か

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以上述べてきたように濃姫に対する話は想像上のことばかりで、その実態は信長との婚姻後一切出てきません。

しかし、あれだけの破壊者であり奇抜に富んだ信長を陰で支えていたのは濃姫であったのではないでしょうか。信長にはたくさんの側室もいますし、その子供たちもいます。

そんな中、織田家の内面で跡目を争うとか、側室がしゃしゃり出るということもありませんでした。と言うことは、織田家の奥でしっかりと舵をとる人がいたということです。

それが正室である濃姫だったのではないでしょうか。

そして濃姫は側室が生んだ信忠を養子にしています。信長の嫡男を自分の子とすることで、道三以降も自分の子が美濃を支配できる正当な理由となります。

実際信長は信忠に家督を譲った時、美濃と尾張の支配を任せています。かなり真実味を帯びていると思われます。

信長に輿入れしてからあまり目立ったエピソードのない濃姫ですが、信長を陰で支える才女だったのではないでしょうか。ミステリアスな分、魅力的な女性のような気がします。

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