織田信長を裏切った!「明智光秀」が本能寺の変を引き起こした理由

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明智光秀は織田信長の家来として活躍した

明智光秀は清和源氏の土岐氏の支流明智氏に生まれました。青年期の履歴は不明な点が多いのですが、美濃国の斎藤道三に仕え、道三、義龍の親子争いの際道三側についた為明智城を攻められ一族は離散しました。

その後足利義昭の配下にあった光秀は、織田信長を征夷大将軍に進める使者として初めて信長と対面を果たしています。光秀の叔母は斎藤道三の夫人であったとされ、信長の正室濃姫とは従兄弟であったからだと言われています。

足利義昭、織田信長両方の家臣となります。永禄12年(1569年)頃から木下秀吉(後の羽柴秀吉)や丹羽長秀らとともに織田家支配下の京都と周辺の政務にあたり、事実上は京都奉行の職務をおこなっています。

元亀5年(1570年)の朝倉攻めでは、浅井長政の裏切りで危機に陥るも、秀吉とともに殿を務めるなど活躍しました。

室町幕府が滅亡してからは信長の主たる家臣として様々な戦で武功を挙げます。丹波を平定し、滋賀郡、南山城を含めた、近江から山陰に向けた畿内方面軍が成立しました。

1582年武田家との最終戦である甲州征伐では、信長に従軍しています。

このように明智光秀は織田信長の家臣として揺るぎない立場にあったのです。

 

明智光秀は本能寺の変を引き起こし信長は自害した

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天正10年(1582年)6月明智光秀は突然クーデターを起こします。かの有名な本能寺の変です。

羽柴秀吉の応援として高松へ先行していたはずの明智光秀は、丹波亀山城から引き返し、京都の本能寺に宿泊していた信長と妙覚寺にいた信忠を襲撃しました。

寝込みを襲われたという説もありますが、早朝4時頃だったということから、信長はすでに起きており、小姓の森蘭丸に様子を見に行かせた所寺の周りは光秀の軍勢に囲まれていたとも言われています。

信長は100名ほどの家臣しか連れておらず、光秀の13,000と言われる兵力には歯が立ちませんでした。本能寺はいざという時の為に充分安全に作られていたといいます。

しかし多勢に無勢でさすがの信長もここで火を放ち自害しました。信忠も二条城へ籠城し反撃を試みましたが、やはりその地で自害しています。

しかし信長も、信忠もその首を誰も確認していません。配下のものが持ち出して荼毘に付したのか謎です。

 

明智光秀が本能寺の変を起こした理由のいくつかの説

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本能寺の変の後明智光秀は、中国攻めに向かっていた秀吉の帰還により追い詰められてしまいます。
坂本城を目指して落ちのびる途中、落ち武者狩りの百姓によって竹槍で刺され落命したと言われています。

信長の代表的家臣の立場にあった光秀は何故このようなことをしたのでしょう。

先ず信長に対する恨みがあったとされる説があります。信長は家臣に厳しい人で、ちょっとしたことでも所領地を変えられたり減らされたりしたそうです。

それを恨んでのクーデターとの見方があります。光秀は今でいうインテリな人だったらしくプライドの高い部分がそうさせたのかもしれません。

次に四国の長宗我部元親が助けを求めたからという説もあります。こちらは最近長宗我部氏が光秀側に宛てた手紙が出てきて話題を呼んでいます。

その他に徳川家康の名前も出てきます。家康はこの時大阪にいたのです。

その前に光秀は家康の接待役を命じられています。そこで話ができていたのではないでしょうか。
そう黒幕は家康だったのではないかという説も考えられます。

死んだはずの明智光秀が、徳川家康の軍師として活躍した南光坊天海ではないのかというのです。
これも興味深い話ですね。この天海についてはいずれお話することといたしましょう。

このように謎の多いクーデターです。これによって一番得をした人を考えるともっと面白くなりますね。

討たれた信長も生き延びたのではないかという人もいます。
これだから歴史にロマンは欠かせないのですね。

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