天下布武!信長を支えた家臣の物語…織田信長と18人の家臣たち

SnapCrab_NoName_2016-6-8_17-48-14_No-00

 

織田家の老臣「佐久間信盛」

織田信長の父、織田信秀の代から仕えていた佐久間信盛は信長の幼少期から重臣として取り立てられ、殿軍の指揮を得意としたことから「退き佐久間」と呼ばれていました。信長の合戦にはほとんど出陣し手柄を立てましたが、本願寺責めに時間をかけすぎたことなどで信長の怒りを買い嫡男の信栄と共に高野山へと送られました。

信盛は紀伊熊野にて死去、信栄は織田信忠の家臣として帰参を許されています。

 

佐久間信盛の跡を継いだ「柴田勝家」

SnapCrab_NoName_2016-6-8_17-49-24_No-00

柴田勝家は佐久間信盛と同じく、織田信秀の家臣として仕えていましたが、信秀が死去すると織田信行(信長の弟)に家老として仕えます。信行を織田家の当主にすべく画策しましたが、信長に敗れ降伏しました。

權六と呼ばれ織田家の顔とも言われる強将だった勝家は、その後も信長の重臣として武功を挙げていきます。信長の死後は、お市の方(信長の妹で、浅井長政の元妻)と結婚しました。

その後秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗れ越前の北ノ庄城にてお市と共に自害しています。

 

織田家の二番家老「丹羽長秀」

SnapCrab_NoName_2016-6-8_17-50-23_No-00

丹羽長秀は、天文19年(1550年)から信長に仕え、斎藤龍興との美濃での戦いで活躍し、その後も長篠の戦いなどで手柄を立てた信長の信頼厚い家臣でした。安土城の普請奉行などの大役も任され、後に若狭一国を与えられています。

本能寺の変が起こると、羽柴秀吉と共に山崎の戦いで明智光秀を討ちました。秀吉と柴田勝家とが天下を争った賤ヶ岳の戦いでも秀吉を援護し多くの所領を与えられた大大名となりました。

その後胃癌で亡くなったそうですが、その死には諸説あり自害したとも言われています。

羽柴秀吉は、この丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつもらい羽柴と名乗っていたそうです。

 

織田信長の側近「村井貞勝」

SnapCrab_NoName_2016-6-8_17-51-16_No-00

村井貞勝は足利義昭を追放した信長が京都を支配下に置いた時、京都所司代に任ぜられます。それから京都での役目をほとんど任されていました。

本能寺の変では、信長の嫡男信忠と二条城へ立てこもり明智軍に応戦しましたが、共に討ち死にしました。

 

北陸を任された家臣「佐々成政」「前田利家」「不破光治」

SnapCrab_NoName_2016-6-8_17-52-16_No-00

織田信長は上杉家を牽制するために、柴田勝家を長に置き、佐々成政、前田利家、不破光治の3人(府中三人衆)を与力、目付として北陸方面へ配置しています。

佐々成政は、越中国平定に携わりました。本能寺の変の知らせを受けた時、成政は上杉軍の反撃に遭い身動きが取れない状況でしたので、秀吉に明智光秀を討ち果たす手柄を立てられてしまいます。

その後秀吉から肥後を与えられたのですが、一揆が起き、それを自力で抑えることができなかったために切腹を命じられました。

前田利家は槍の名手で「槍の又左」の異名を持ちます。本能寺の変の後はじめは柴田勝家につきますが、後に秀吉側に臣従しています。そして加賀百万石の礎を築きました。

不破光治は伊勢長島攻めや一乗谷の戦いなどで武功を挙げました。

 

近畿を任された家臣「明智光秀」「細川藤孝」

SnapCrab_NoName_2016-6-8_17-52-56_No-00

近畿地方の治安維持の為に、明智光秀や細川藤孝が配置されました。二人とも元々は将軍家へ仕えていましたが、足利義昭と織田信長の間がこじれると信長の家臣となります。

明智光秀が本能寺の変を起こした時、細川藤孝も誘われたのですが断っています。両名は長年の友人でしたがここで決別となったのです。

 

関東を任された「滝川一益」

SnapCrab_NoName_2016-6-8_17-53-40_No-00

滝川一益は諸国を流浪の末織田信長の家臣となりました。甲州征伐などで手柄を上げ、ついに関東方面の司令官となります。

関東八州の警護や北条氏との外交を任されましたが、本能寺の変後の山崎の合戦や清洲会議に間に合わず、信長の葬儀にも出席を許されませんでした。

秀吉と家康の小牧長久手の戦いでは秀吉側に加わりますが、家康と織田信雄連合軍に反撃され10数日で戦を投げ出してしまい、出家をして越前に蟄居しました。

 

中国方面を任された「羽柴秀吉」

SnapCrab_NoName_2016-6-8_17-54-16_No-00

百姓から大名へ駆け上がり、信長の跡を引き継いで天下人となる秀吉は、毛利軍に対する為に中国方面の司令官となります。本能寺の変では、黒田官兵衛の助言でいち早く兵を戻し明智光秀討伐の功を挙げました。

 

四国方面を任された「織田信孝」

SnapCrab_NoName_2016-6-8_17-54-56_No-00

織田信長の三男である信孝は、長宗我部軍に対して四国を任されました。父信長が嫡男の信忠と本能寺の変で死去すると、織田家の跡目を争います。

清洲会議で信忠の嫡男三法師に跡目が決まるとこれを不服として柴田勝家らと戦い、敗れ切腹を命じられました。享年26歳の若さでした。

 

信長の遊撃軍は次男「織田信雄」と「池田恒興」

SnapCrab_NoName_2016-6-8_17-55-46_No-00

織田家の遊撃軍には、信長の次男織田信雄と池田恒興が名を連ねています。

池田恒興はその母が信長の乳母の為、信長とは乳兄弟です。信長の死後は秀吉軍に付き小牧長久手の戦いで戦死しました。

 

織田家4人の外様大名

織田家の外様大名には、荒木村重、松永久秀、浅井長政、九鬼嘉隆がいます。

荒木村重は、石山本願寺へ兵糧を送っているとデマを流され、このままでは信長に処罰されると怖れ、謀反を起こしました。

この謀反のせいで一族は皆処罰を受けましたが、荒木村重は逃げ出し、その後茶人となっています。

松永久秀は、畿内を乗っ取る為に将軍足利義輝を殺害、その後仕えていた三好家を滅ぼしその際東大寺の大仏殿を一緒に焼いてしまうというかなりの悪党ぶりでした。そんな松永久秀は信長の配下になりますが、やはり謀反を起こします。

しかし無論のこと信長には歯が立たず、信長の欲しがっていた平蜘蛛の釜を割って爆死しました。

浅井長政は信長の妹お市の方の夫でした。当然織田家との関係は円満なはずでしたが、朝倉軍の味方をして信長と戦うことになり、「姉川の戦い」で大敗し自害しました。

最後に九鬼嘉隆です。嘉隆は織田家の水軍を担当していた武将です。

鉄張りの巨船、甲鉄戦艦を率いて当時無敵と言われた村上水軍を倒したほか、秀吉の朝鮮出兵でも水軍の将として出陣しています。

こうしてみると信長の家臣は一癖も二癖もある武将たちの集りのようです。

スポンサーリンク

  • facebookシェア
  • twitterツィート
  • はてなブックマークはてブ
  • Google+Google+
  • RSSRSS
  • PocketPocket
サブコンテンツ

このページの先頭へ